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小さな木地屋の物語

輪島 挽物木地師 池下満雄

木地は、やっぱ材料やね。丸形に挽いても狂わんし。身体の調子がいいときは、美しいがに仕上がって、「嗚呼、いいがになった」と思うね。

​——池下満雄(1939_2024)

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能登半島の小さな町に、ひとりの木地師がいた。池下満雄さん。

15歳でこの道に入り、71年間、ただひたすらに椀の木地を挽き続けた。

生涯現役を貫いたその背には、輪島塗の長い歴史と、

数えきれぬ器のいのちが宿っていた。

赤木さんが池下さんの仕事場を初めて訪れたのは、2007年の春だったという。

昭和の面影を残すその工房には、まるで時間が止まっているような静けさがあった。

木粉に曇る窓、ぶら下がる裸電球、そして年季の入った轆轤がひとつ。

まるで古い教室のような空間に、かつては六人の職人が働いていたが、

いまはただ池下さんひとり。

だが、そこには忘れ去られた時間が息を潜めるように残っていた。

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土蔵の奥から転がり出た古い荒型――百年を経た欅の塊。

埃に覆われ、誰の目にも見捨てられていたようなそれを、

池下さんは「ああ、うちのじいちゃんが若いころに入れた型やさけな」と、

ぽつりと口にした。

その型を「使わせてください」と頼んだ赤木さんに、

池下さんはただ一言「わかったよ」と頷いた。

そこに迷いも、誇示もなかった。

素材に、技に、そして時間そのものに身を預けて生きてきた人の、

静かな肯定だった。

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2024年の元日、能登を襲った大地震は、

池下さんの工房も容赦なく倒壊させた。

赤木さんは、自らの工房や仕事場の復旧を後回しにして、

真っ先に池下さんの仕事場の再建に動いた。

「新しい輪島塗を始めます。窓の外の景色が悲しい」と語りながら、

それでも「また塗れる」と再び手を動かし始めた。

再建された工房に戻った池下さんは、

かつてと変わらぬ姿で轆轤の前に座った。

だがその数日後、静かに息を引き取った。

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それから20年近くの間、

池下さんは一人の塗師――赤木明登さんのために木地を挽き続けた。

赤木さんは語る。

「輪島塗にとって本質的で美しい形が、

木地師・池下満雄の身体の血と肉のなかに脈々と流れていた」。

それは、今の輪島ではすでに見失われた形でもあった。

池下満雄 × 赤木明登

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挽物木地師・池下満雄、最期の仕事。

最後に挽かれた木地は、赤木さんの漆によって仕上げられた「李朝盤」だった。

それは、ひとりの職人の物語であると同時に、

輪島という土地に流れる協働の記憶、

時を超えて受け継がれるいのちの営みの証でもある。

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桃山時代の応量器「正法寺椀」をもとに、かたちの再解釈を試みた一品。

縦方向の抑制を効かせつつ、水平方向へと大胆に広げることで、器の中に静かな“ひろがり”を生み出している。

高台の高さと見込みの深さの微妙な均衡が、器にただよう静謐さと緊張感を与えている。

仕上げには、漆黒ともいえる深い黒の真塗が施されており、まるで虚空を映す鏡のように、何もないはずの内側に、微細な世界の気配が宿っているようでもある。

漆器としての機能性を保ちつつ、どこか彫刻的で抽象的。食の場にとどまらず、精神性の容れ物としても成立しうる器。正法寺椀という祈りのかたちをなぞりながら、現代の暮らしのなかに「空」を立ち上がらせる、静かな挑戦といえるだろう。

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能登は古来より信仰の地であった。平安時代には、修験と密教の大寺院が栄えた。鎌倉時代には、曹洞宗總持寺派の本山ができた。桃山時代になると、一向宗の拠点となり、いまも浄土真宗のお寺が多い。修行僧が托鉢に使う鐵鉢や、それが起源となった応量器と、輪島塗とのつながりは定かではないが、輪島塗の始まる以前の能登の地霊に想いを馳せて、鐵鉢をイメージした器を制作した。高台のない丸底であるが、これは左右から器を抱えるように持ち、天恵に感謝の祈りを捧げる形だったのではないだろうか。

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拙考stillmind | Craft & Art

芸術・工藝文化に関する出版と流通。

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