top of page
検索
  • 執筆者の写真Yiwen

浅川巧の日記より 幸福について




先日、金沢の友人から民藝の雑誌を一冊頂いた(写真左)。

浅川巧のことを前から気になって全集買うのを悩んでいたが、これをきっかけに購入を決意した。(写真右)

以下は、大正11年9月2日、浅川さんの日記に書かれた、ある友人との雑談である。

本当に良かったので、丸写してみた。是非ご覧ください。


「人間の幸福ということをどう思う」

「幸福とはどんなものかということか」

「そうでもいい」

「定義は別に考えていなかったから一概には言えないが感じた経験は確かにある」

「経験にのみよるべきものか」

「同一の出来事でも幸福の感じられる場合と感じられない場合があると思う。それで実験した幸福には誤りはない訳だ。金が溜まったら幸福だろうと考えたとしても実際溜まって見て幸福が感じられなかったら、その場合金の溜るということは幸福ではなかったのだ」

「君の経験した幸福とはどんなものだ」

「随分沢山あるがそのうちで宗教的世界を理解する様になってからのものが多い。それ以前の出来事も宗教的に解釈し得るが、その事の経験中に幸福を感じなかったか、感じても深くなかったかである気がする。宗教的に自我が覚めるということが幸福を感ずる第一資格である気がする」

「宗教的に自我の覚醒していない人は真の幸福に与えれないというのか」

「そうだ。恋愛でも美衣美食でも、労働でも科学研究でも、病気でも恋人の死でも、友からの誤解でもあらゆる人生の出来事に宗教的見解を附して幸福を感じていける訳だ」

「そうすると喜楽、悲痛悉く幸福なりということになって妙に味のない人生になりはしないか。いくら宗教的見解が正しくても人間である以上悲しい時には悲しむ外あるまい。それをはじめから幸福であるべきものなりと高をくくって置いて、悲しいことを幸福に感じなければならん約束を守ることは虚偽であり不自然ではないか。僕もよくそんなクリスチャンを見る。いやに虚勢を張って嬉しくもないのに約束によって嬉しがって見せて他人と自分を瞞着して暮している者がある。尤も悲しいことでも嬉しいという約束に従えば嬉しくなり、嬉しいことでも悲しく考えていると涙が出たりすることはある。しかしそんな真似を正気でする気になれない」

「君の言うことにもほんとうのことはあるが宗教の妙味に触れていない考えだ。くだらない約束に従って人生の出来事を考え、万事を型に拠って行うということは虚偽に相違ない。只自我の覚めた心を直接その対象に向けて判断するのだ。そして悲しかったら悲しみ、嬉しかったら喜ぶのだ。何も約束を守る必要はない。約束を思うすら不純である。それで僕は言うのだ、クリスチャンになることでなく自我の覚醒が必要であると。型を守って万事を幸福であるべきものなりと断定してかかるのでないから、全ての経験は味がない処が実に複雑な新しい味に満ちている。例えば庭先の小さい景色でも毎朝美しく感ずる。その美しさは毎朝新しい。型を守らず無理でなく只感ずるのだ、そしてその美に酔った時幸福を感じないでいられようか」

「それでは覚めた心で経験して幸福を感じだら幸福であり、幸福が感じられなければ幸福でなし。約束を忘れた平気な心で自然を見て美しく思ったら美しいので思えなかったら美しくないことになるだろう」

「それはそうに相違いないが君の心はまだ覚め切らないからその質問が出るのだ。覚めた心の状態を君は考えたことがあるか」

「自己の人生観に依って自我の存在を目覚した態ではないか」

「先ずそんなものだろう。僕はクリスチャンだから自分の信仰から簡単にいうと信仰に依って神と自分との関係を自覚した時と言いたい」

「その時クリスチャンの心はどんな状態になるか説明できるか」

「自分は神から愛せられていると信じている。自分の存在も神の慈悲によるという信仰に依っているから悲痛からでも遁れようとしない。却って徐に味はふとする余裕がある。信仰は約束ではない。嬰児が慈母を信頼するようなものだ。自分達が食物の美味を欲するならば真の美味は食物の選択のみで得られない。身体の強健と空腹とが第一の条件である。いかなる美味の物でも満腹の時、身体に故障のある時はその真味に触れ得まい。そこで一口に言うと健全なる信仰と切望する心とが祝福をうける資格者であると言い得る」

「僕には信仰という程のものもなし、真の幸福が何にかも知らないから切望することも出来ないのだ。どうしたらいいのだ。しかし僕もこれで随分色々の幸福を感じているよ。自分の関係している仕事が思う様にいった時、彼女と恋した時、結婚した時、子供の生れた時、自分の苦心の認められた時、いい友達に会った時、信ずる友から同情を受けた時、美しい自然に親しんだ時、かなり過分な幸福を感じているのだがなぁ」

「君が幸福を感じないとか感ずる資格がないとか言っていない。只、君、前に引いた例の様に美味なものは誰にも美味であることは普通であるとしてもその程度は一概に定められない。各人の感じを比較対照することもできないが、感じた味は各自異なると見るが至当である。体質、強弱、空腹の程度、嗜好の差異等があるから同一の人でも時に異う。幸福も深い妙味に触れるためにはそれだけの準備が要るのだ。そしてその準備に益々妙境に入るのだ。即ち前に言った信仰と希望とが準備であり、愛に依って実行して進めて行くのだ。君も大分話がわかるようだから話すが耶蘇教の話を暫く辛抱して聞け。僕がこの幸福についての大切な聖書の文句を読んでみるから。

幸福なるかな、心の貧しき者、天國はその人のものなり。

幸福なるかな、悲しむ者、その人は慰められん

幸福なるかな、柔和なる者、その人は地を嗣がん。

幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者、その人は飽くことを得ん。

幸福なるかな、憐憫ある者、その人は憐憫を得ん。

幸福なるかな、心の淸き者、その人は神を見ん。

幸福なるかな、平和ならしむる者、その人は神の子と稱へられん。

幸福なるかな、義のために責められたる者、天國はその人のものなり。我がために人、なんぢらを罵り、また責め、詐りて各樣の惡しきことを言ふときは、汝ら幸福なり。喜び喜べ、天にて汝らの報は大なり。汝等より前にありし預言者等をも、斯く責めたりき。

どうだ素晴らしい言葉だ。そしてみんな真箇だ。此の言葉の力も信仰に依らなければ感じられない深さを持っている。この言葉は幸福を得る鍵だ。前にも言った様に、神と自分との関係を自覚した心、神の前に出た時小さく力なき醜き心を悟ったなら、不完全な知識も腐り易い宝も面倒な約束も棄てて赤裸々になって憐憫や清浄や平和を求め義のために奮い立つであろう。そこに幸福がある。要は全てを棄てることだ。虚心になることだ。」

「一寸待て虚心と自覚とは矛盾しないか」

「決して矛盾しない。神との関係を自覚することは『神我に居り神我に居る』と言うようの境で我心が神のうちに住むのだ。それで虚心というのだ。真空の如き神に満たされている人の心を虚心と名づけるのだ。花を見て美しいと思った刹那その美しさに酔った瞬間は心は花に居り、花は心に住んで区別もないであろう。神についてのその心の状態を貧しい心又は虚心といったのだ。そして全ては与えられた結果が幸福だというより、虚心とか心の清きとかいうその心その者が幸福である。神に奪われた心、神を宿した心が幸福なのだ。

達者な者でなければ食物の美味に触れ得ないように、健全な信仰を離れて幸福は味えない。真の幸福は神から来るのだ。自分達は世俗の幸福と区別するために神よりの幸福を祝福と名づけておこう。俺は今、祝福を感じている」

 

浅川巧 著 ; 高崎宗司 編(草風館、1996年)

閲覧数:102回0件のコメント

Comments


bottom of page