人工と自然のあわい
stones
石の創生が星が古いが如く古い。歴史は遼遠であり静寂である。
人間の世紀はその年次を数えるには余りに短い。それは凡ての人事を越える。
喜怒哀楽の世界を去った超脱の境地である。そこでは感情が休む。
石に誘はれるのはこの深さがあるからである。 石には自然の哲理が潜む。
柳宗悦
赤木明登 塗師
子どものころから、古い物が好きで、いろんなものを拾って集めてた。大人になってから、さすがに買うものが増えたけど、いまだに拾えるものは拾ってくる。買うものでは、古代の土器、中世から近世の漆の器。よく拾うのは、海岸に打ち寄せられた丸い石っころ。手の中の石は、自分に与えられた時間より、ずっと長い間その形を保っているように思えるからね。
ぼくは、器をつくっているけれど、それは、あくまでも人間の用途や機能に合わせた人工のもの。その人工物の中に美しい線と形を探し求めている。同時に、純粋な自然の無垢な姿、作為も何もない美しさに憧れがれている。矛盾してるけど、近づきたいと思ってる。でも、人がつくるかぎり人工物であることは、免れることができないんだ。
それで、ときどき用途から離れて遊びはじめる。海岸に落ちてる石ころを相手にね。
最初は、木を削って、自然の石の形をマネしてつくってみたんだ。でも、どこかギコチナイものになってしまう。そこで、石の形をそのまま写し取るやり方を考えてみた。それが脱乾漆という古代の技法。まず石をラップに包んで、上から麻の布を漆と膠で貼り付ける。何重にもして硬くなったら、いちばん直経の大きいところに刃物を入れて上下に割って、中の石を取り出す。ラップを外したら、石はキレイなまま出てくるので、海に戻してあげる。分かれたところを漆でくっつけて、上から更に布を重ねていく。
そうすると中は空っぼなんだけど、石の形をそのまま写し取ったものができあがる。それを空石(からいし)と名づけた。
それから20年くらい遊んでいると、どういうわけか人間ていうのはそこに手を、つまり人工を加えたくなってしまうんだ。縄文時代の遺物を見ていると、彼らははものすごい労力をかけて石に穴を開けてるのがわかる。そこに何か人間のサガみたいなのを感じるの。自然と人工のふたつがピッタリ交わったポイントが、じつは器の神々しさの起源なんじゃないか。人が、神を想像してつくりだしたようにね。そこから風石(かざいし)できた。
逆に、器という人工をふたたび自然の石から取り出せないかと考えてたとき、石のなかに石を入れてみた。いや違うな。一つの空間に二つの石が同時に存在するような奇妙なイメージが出てきたの。物理法則に支配されている自然には起こり得ないことなんだけど、もともとは、自然の形の重なり。それが器になったのが温石(おんじやく)。
そうやって、人工と自然のあわいをぐるぐるまわりながら遊んでいる。すると、どんどん形ができてくる。